November 22, 2004
選ぶ音楽3 -黒人音楽の神話批評-
ジャンルという分け方が、例えば一人のアーティストが様々な音楽を作っている場合に、リスナーがそれらの作品を結びつけて鑑賞する事を難しくしている。それから、今年はアンビエント、来年はロックバンドのプロデュースといった活動をしているBrian Enoの様な人の場合には、作品がジャンルやプロデュースしたバンド毎にバラバラに陳列されてしまうので、彼個人の作風の移り変わりを追いにくくしているという事も、前回は話した。
しかし、ジャンルが隠してしまうのはこのような様式同士の関係性だけではない。各ジャンルはバラバラに語られ、それぞれの起源と思われている物語が誇張される。ますますリスナーの視野を狭め、他のスタイルに対しても排他的にさせやすい。解りやすい例で言えば黒人音楽にまつわる数々の神話。ブルースやソウル、ヒップホップ等には特有のリズムや節回しがあって、黒人の貧しさ、彼らの社会的な闘争の手段や象徴と考えられ、ドラッグの密売買で捕まるようなミュージシャン達の行動があたかもクールな話として採り上げられる。
ここには他の様式との有機的な連関の視点が欠けているし、不用意に犯罪や人種間の対立を煽る仕掛けにもなっている。例えばブルースやジャズにはアフリカ音楽に特徴的な複雑なシンコペーションがあり、ブルースケールと呼ばれる独特な音階を用いたりもするが、実はそれらは西洋の記譜法を通じて広く理解されてきた。きわめて黒人的と言われるブルースやソウルにおいてさえ、アフリカ音楽には無いバー(小節線)や和声の理論と混在している。ジャズに至ってはこの事がますます顕著で、優れたジャズマンの大半が、ジュリアードやバークレーを始めとする音楽大学で、西欧の伝統音楽に基づく理論や奏法のプラクティス(=慣習)を叩き込まれている。
ここで気が付くことは、これらが単純に白人のものでも黒人のものでもなく、フュージョンの状態にある事だ。それは西洋の近代音楽でもアフリカの民族音楽でもなく、まさにアメリカに日々暮らす人々の唄、アメリカーナと言うべきものだろう。同様の事はジョビンのボサノバやピアソラのタンゴにも言える。ブラジルに在来のサンバやショーロとドビュッシーやショパンといった西洋音楽の出会いとしてのブラジリア。同じようにピアソラもパリで学び、アルゼンチンとのフュージョン、現代に暮らす人々のタンゴを奏でた。
このように、それぞれのジャンルが互いにどういう関係の中にあるのか、ミュージシャン達が誰の音楽を模倣してきたのか、すこし調べながら鑑賞してみると、聞きなれたスタンダードも違った意味合いを帯びて聞こえるかもしれない。
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【参考ディスク】
『Blue in Green』試聴はこちら
(Real Player)
いわゆるモードジャズを提唱した作品。Gil / Bill Evansらの現代和声の核心を得たモード(=旋法)の解釈と、マイルス、コルトレーン等による名演。
GetzやGilbertoの流暢な演奏も好まれているが、ポリリズミックなアレンジがジョビン本人のとつとつとした声やピアノで奏でられている。
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June 17, 2004
選ぶ音楽2 -ジャンル分けをめぐる課題-
Brian Enoの音楽をどのカテゴリーに入れるのが適当か?と当サイトから質問を受けたのが、私がこの一連のエッセイを寄稿するきっかけだった。
EnoといえばU2、David Bowie、Talking HeadsやLaurie Anderson等のヒットアルバムに前衛的なコンセプトや音響処理によるマジックを与えたと言われるプロデューサーであるばかりでなく、Ambient(=環境の一部として聴く音楽)という既にシーンの中の一ジャンルとして語られる様式の旗手でもあり、複数のプロジェクターによる映像や、テープループ、自動作曲の装置を組み合わせた現代美術的なインスタレーションは、催される世界各地で見るものに新鮮な感慨を与えている。
当然彼にも商業上の何らかの場を割かない訳にいかないにはせよ、ジャンルという便宜的な区分から逸脱したその才能の在り方に一つの冠詞を付してしまえば、本来どの作品にも共通して聞く事が出来る、優れた思想やその時代毎の変遷に注視してみるという、リスナーの営みを妨げる事にもなりかねない。
そこで私がMuzseekに具体的に提案したのは、ショップや雑誌のCDレビューで一般的に採られる、Enoの個々の作品をAmbientやRockというジャンルに分類する方法に加え、その全てをClassic/Modernのカテゴリーにも重複させて入れる事だった。
何故かと言えば、Enoは元々Art Schoolの出身で、アーティストとしてもミュージシャンとしても同時代の芸術に革命をもたらしたと言われるJohn Cageの思想に多くを負っている。その意味で、Enoについてはスター達との華やかなコラボレーションがジャーナリスティックに語られるが、理論と実技のメチエを長く厳格に伝え、その上に技術革新が生されてきた西欧の伝統音楽の中での前衛的な音楽家としても、注目に値するからだ。
このように一般のジャンル分けにコンテクストを補ってみれば、例えば西欧の伝統音楽を理論的なフレームとしているPopsやRock、Jazz等々はもちろん、他の多くの音楽とも、差異や近似性についてより多くの見方から鑑賞し楽しむ事ができるだろう。
(次回は黒人音楽と細分化した個々のジャンルにまつわる神話について、フランクに論じてみたい。)
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June 04, 2004
選ぶ音楽1 -Muzseekの一つの手引きとして-
「良いものを自分で探していくという事がこれからの音楽にも必要な気がします。」1996年、細野晴臣<アーティスト情報>は若者達に向けてそう話していた。
今、私達の周りには音楽ソフトがあふれている。リスナーはその膨大な中からそれぞれの趣向に合わせて音楽を聴いている様に見える。供給する側も、多様化している需要に合わせて過去の音源等から様々な玄人向けの企画CDを発表し、或いはそれに逆らう形で相も変わらずCM大量投下にメディアミックス、タイアップ戦略でなんとか量を裁こうと、あの手この手で産業は効率的な生き残りを計っている。
近年ブライアン・イーノが繰り返し語る「音楽はもはや文化の中心ではない」との言を待つまでもなく、かつてはエルビスやビートルズの楽曲やファッションで、世界中の誰もが流行を語り共通の感覚を持っていたように見えたし、Imagineが反戦運動を鼓舞し政治的な広がりを見せ、ゴダールをしてロックの階級闘争における可能性(その理想の是非は問わないにしても)を示唆させた。しかし、音楽がそのように社会的な共通の広がりと影響力を持っていたのは、気付けば遠い過去の事だろう。今、我々の周りにはそのように共通の話題にできる音楽は少ない。
「いろんな好みがあっていいじゃないか?」「たくさんの音楽がある事は豊かであることの証だ。」等々、これを肯定する向きも多いだろう。又、そもそも社会そのものが変わって来ていて、そこに在る音楽の役割についてもかつてとは同じ土台では比べられないのだから、注意深く考えて見る必要もあるだろう。私もそれらの見方自体に異論はない。経済的に豊かで、通貨の価値が相対的に高ければこそ、世界中から音楽ソフトを集め聴く事ができるし、様々に工夫されたオプションの中から気軽にそれらの商品を購入する事もできるだろう。だが一方で消費者は、例えば細野が薦めるようにそれらの中から本当に良質な音楽を探し、何かの感慨に出会える機会に恵まれているのだろうか?
実際にこの読者の方々は何の情報を基にCD等を選んで聞いているだろう。形骸化した業種同士が互いに連携している音楽産業が、効率的に利潤を上げる目的で組んだリリースのローテーションや新譜情報、MTV等で繰り返し流れるプロモビデオにラジオ放送。果ては広告代理店の息のかかった音楽評論や各誌のPRに至るまで、それらは音楽自体の内容や質とはあまりに関係がない。
このような状況を前にして、消費者個人には現実にどれだけの選択肢があるのか? 今も好きで聞いていると思っている流行の歌がある。だが商業的な理由とは別に紹介される音楽に触れる機会や手段がもっとあれば、その変わりに私は何を聞いているのだろう…。
例えばMuzseekは商業的な思惑が少なく、クリエイターの有志によって運営されているサイトだ。ここに寄稿されるレビューを読み、mp3を視聴してみたりする事は、既成の媒体とは違うソースを得る一つの方法ではあると思う。
(次回は、音楽のジャンル分けをめぐる話題についてと最初の“共通の物語”について考えながらフランクに論じてみたい。)
作曲家:芳村皇
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